貝塚市立二色学園の平和学習
10月22日、貝塚市立二色学園の平和学習が追悼平和記念館で行われ、28名の生徒さんがお話を聞かれました。
今回は「原爆の子の像 語り部の会」の山崎弘子さんにお話をしていただきました。
事前に生徒さんの人数分折り鶴ノートをお送りしていたので、お話の最後に折り鶴ノートのご紹介もしていただきました。
当日生徒さんからいただいた感想をご紹介いたします。
【生徒さんからの感想】
『川野さんは被爆したけど、蚊帳で傷を負わず、また黒い雨にもあたらず、そして今も生きているのは、奇跡だと思いました。』
『禎ちゃんや川野さんたちの会話が聞けて、気持ちがよく伝わりました。』
『川野さんがされたことは、自分なら難しいしできないなと思いましたが、みんなが団結していたからできたのかなと思いました。』
『話を聞いて戦争が怖いと思いました。』
『この話を聞いて原爆の子の像のことがよくわかり嬉しかったです。』
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また、私への質問をいただいておりますので、こちらでお答えしたいと思います。
【質問】
Q. 禎ちゃんが亡くなる前と後の、川野さんの気持ちの変化を教えてください。
A. 禎ちゃんが亡くなる前は、禎ちゃんの回復を願い、早く元気になってほしいという思いで見守っていました。
しかし亡くなった後は、お見舞いを続けると約束していながら果たせなかったことへの強い後悔に包まれ「禎ちゃんのために何かしたい」という気持ちへと変わっていきました。
またそれと同時に、私も含めクラスの1/3は被爆者だったため、みんなそれぞれに不安や死への恐怖に襲われ、自分が夢中になるものがないとやりきれないという強い思いに駆らたのも確かです。
Q. 川野さんは語り部をやめたいと思ったことがありますか?
A. はい、何度もありました。
最初は話しているうちにその当時の自分に返ってしまい、悲しみがこみ上げ涙が溢れてしまい、言葉が出なくなることもありました。
その辛さにに苦しんでやめようと思ったこともありましたが、そこでいつも励みになったのは講和に寄せられる子ども達からの感想文でした。
感想文を読む度に、私が伝えたいことがしっかり伝わっていることがわかり、自分を奮い立たせてることができたので、ここまで続けてくることができました。
Q. 川野さんが、自分が被爆者だと分かった時、どう思いましたか?
A. 小さい頃は、家族や周りの多くの人が被爆者だったため、特別な恐怖は感じていませんでした。
しかし、成長するにつれて、クラスの2/3が被爆していないことに気づき、新聞で「原爆症で亡くなった」という記事について家族が話しているのを聞いたり、身近な人が原爆症で亡くなっていくのを知る中で、次第に「自分も死ぬかもしれない」という不安を強く感じるようになりました。
親友だった禎ちゃんの死は大きな衝撃で、原爆症の恐ろしさを現実のこととして受け止めるきっかけになりました。
Q. 像を建立した後、語り部を始められるまでは、どうされていましたか?
A. 禎ちゃんのことを話題にすると、自分が被爆者であることが知られてしまうため、できるだけその話題を避け、原爆のことに触れないようにして生活していました。
また、原爆症で亡くなる人のニュースを新聞で目にする度にショックを受け、「自分もそうなるかもしれない」という不安を感じるということを繰り返していました。
Q. (語り部をしていて)一番大変だったことを教えてください。
A. 失語症になった時です。
お引き受けしていた講和前日に急に声が出なくなり、急遽娘に一緒に登壇してもらい、私の書いた台本を娘に代読してもらったことがありました。
今後もいつこのようなことになるかわからないのと、自分の年齢も考えるといつまで続けられるのかという不安がおこりました。
そのことがきっかけで、2022年に「原爆の子の像語り部の会」を立ち上げました。
現在活動されていらっしゃる方々は平和活動に強い意志をもっていらっしゃる方々ばかりで、伝承者として私に代わってお話をしていただいています。
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山崎さんから当日の様子を報告いただきましたので、ご紹介いたします。
【山崎さんからの報告】
私自身、子供たちから学ぶ場面が多くありました。
講話後の子供たちの感想を聞き、6年竹組の仲間たちの禎ちゃんへの思いや言葉が届いたのが伝わり、嬉しかったです。
また、戦争や原爆の怖さが伝わったのではないかと思います。
命が大切、平和が大切という思いを大切にして過ごしていただきたいです。



