語りの部屋

2018.8.08

広島大学附属小学校の平和学習

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7月18日に、広島大学附属小学校の4年生の生徒さん64名に、「原爆の子の像と6年竹組の仲間たち」のお話をしてきました。

 

以前私のお話を聞いてくださっていた担任の先生からのご要望で、今回このようにお話しできたことを嬉しく思いました。

 

生徒さんからお手紙と共に、質問もいただいておりますので、いくつかご紹介します。

 

【生徒さんからのお手紙・質問】

Q. 募金活動はどこでしましたか?

A. 福屋デパートの前や、広島駅前でしました

 

Q. 川野さんは学校でどのように呼ばれていたのですか?

A. 「とみちゃん」と呼ばれていました

 

Q. 原爆が落ちた後、一番に何をしましたか?

A. 3歳だった私は、怖さで震えて大泣きをしました

 

Q. 原爆で家はどうなりましたか?

A. 生まれた堀川町の家は、全焼しました

疎開先の牛田町の家は、ガラス戸がすべて割れ、半壊しました

 

Q. 川野さんは足が速かったのですか?

A. 足が速く、リレーの選手でしたが、どうしても禎ちゃんには勝てませんでした

 

Q. 川野さんは放射能を受けましたか?

A. 爆心地から2.3kmの家の中で、放射能を受けました

 

Q. 禎子さんの折った折鶴は、今どこにありますか?

A. 幟町小学校と平和資料館に今もあります

 

Q. 原爆の落ちた日からいつまで大変な生活が続いたのですか?

A. 当時3歳だったので正確には覚えていませんが、食事や着るものなどは質素でも、小学校入学までにはある程度いつもの生活に戻っていました。ただ、小学校のクラスメイトの中には、両親を原爆でなくして施設から通う人や、バラック小屋を建ててそこから通う人もいて、戦後10年経っても元通りという環境ではありませんでした。

 

Q. 6年竹組の先生の事を、今はどう思っていますか?

A. 素晴らしい先生で、今でも尊敬しています

 

Q. 戦争で関係のない人たちが亡くなって、今どう思っていますか?

A. 戦争は絶対あってはならない。戦争は遠い昔の歴史ではなく、すぐ身近で起こりうることなので、唯一の被爆国の私たちが、どんな小さなことでも自分が出来ることは何かを発信していくことだと思います。

 

質問ありがとうございました。

 

 

感想文もいくつかご紹介します。

 

【生徒さんからの感想文】

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<感想文表紙>

 

 

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「これから僕川野さんから聞いたことをまだ原爆を知らない人たちに伝えてあげたいです。そしてこの世界が平和になり、核兵器がない世界にしたいです。そして核兵器が作れないように、ウランや火薬といった危ない化学物質もない世界にしたいです。そして広島に訪れた外国人、観光客にも、核兵器禁止運動を呼びかけたいです。僕の思いは『世界が平和になるようにする』です。」

 

 

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「わたしはその時には生まれていなかったけれど、川野さんのお話でその時にいたような気持ちになりました。いま食べ物がたくさんあることや、平和に暮らせていることに感謝します。」

 

 

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「わたしがぎ問に思っていた「なぜ原爆で亡くなった人はたくさんいるのに、禎子さんが『原爆の子の像』のモデルになったのか」ということの答えが、川野さんのお話を聞いてわかった気がします。それは「禎子さんは生きようと千羽鶴を折ってがんばったし、死んでしまっても友達が募金活動をして、がんばった禎子さんをモデルにしたいと思ったから」だと思います。川野さんにお話しをしてもらって、この「語り部」をしている人がいつかは0人になってしまうと思うと、これから生まれてくる「原爆」というものを知らない人たちに今度は私たちが川野さんに教えてもらったことをお話してあげようと思いました。」