語りの部屋

2024.1.31

観音小学校の感想文

昨年7月14日に訪問した観音小学校から感想文が届きました。

感想文に同封されていた先生からのご挨拶文の中で「いつも元気な子どもたちが、あの日とても真剣な顔で時折涙を見せながら、一生懸命川野さんのお話を聞いていた姿が、私は忘れられません。」という言葉を頂きました。

生徒さん達にとって、私のお話が平和について考えるきっかけになっていれば嬉しいと思います。

 

感想文の一部をご紹介いたします。

<感想文> ※一部抜粋

『折り鶴からできたノートを平和になって欲しいという願いをこめて使おうと思います。私は川野さん達のようなだれかのために何かできるようなすてきな大人になりたいです。そしてこれからみんなの役に立てるようにがんばります。』

 

『何よりも心に強く思ったのが命の重さです。川野さんの家族での出来事、禎子さんの病気のつらさ、たくさんの人の命も戦争、原爆はうばい、私達の生活もこのように変えてきたんだなと思いました。お話を聞いたことで原爆の恐ろしさを身をもって感じる事ができました。』

 

『わたしは広島の子どもなのに、まだ知らないことがたくさんあるということにも気づかされました。』

 

『ぼくは原爆に対する意識が変わりました。広島県人として、世界に平和を伝えていきたいです。原爆のような悲しいことがもう一生起きないようになって欲しいです。』

 

『これまでなんとなく見ていた原爆の子の像でしたが、川野さんのお話を聞いて、すごく団結の心や色々なことがあったんだなと思うようになりました。』

 

『佐々木禎子さんのクラスは「団結」ができていてすごいなぁと思いました。私のクラスもそんなふうになりたいです。禎子さんは元から足が速かったけど、きっとクラスのみんながいたから一番になれたんだと思います。これからは私達が佐々木禎子さんのことを伝えていきます。』

 

『原爆の子の像をつくることを決心したことがすごく心に残りました。毎日お見舞いに行っていることにびっくりしました。このことで私は人を大切にしようと思いました。』

 

 

また、たくさん質問を書いていただいておりますので、こちらのブログで回答させて頂きます。

Q. 禎子さんの命日に月に1回集まっていると聞きましたが、今も集まっているのですか?

A. はい、年に1回同窓会として集まっています。
65年経っているので、同級生も日本中に散らばっており、集まれる人はせいぜい15人程度ですが、これからも続けていきます。

 

Q. 原爆が落ちた後の外はどんな感じでしたか?また、きのこ雲は見ましたか?

A. 当時私は3歳だったので、外の様子やきのこ雲はほとんど覚えていませんが、母から聞いた話では、中心部はほとんど火の海だったそうで、爆心地から1kmのところにあった堀川町の自宅は、全焼して影も形もありませんでした。ただ、私は原爆が落とされた時、爆心地から2.3km離れた疎開先の牛田町の家の中にいたので、家の中のものは全てひっくり返りましたが、私は助かりました。

 

Q. 川野さんは黒い雨を浴びましたか?
A. 疎開先だった牛田町では黒い雨は降りませんでした。

 

Q. 禎子さんが亡くなった時、むらさき色の「はんてん」はいくつあったのですか?

A. 数えてはいませんが、とても沢山できていました。

 

Q. 「原爆の子の像が出来た嬉しさ」と「リレーで1番をとった嬉しさ」どちらが嬉しかったですか?
A. やはり、原爆の子の像が出来た時ですね。もちろんリレーは5年生の時ビリだったので、6年生で1番になった時は嬉しさもひとしおでしたが、それにも増して、原爆の子の像が出来た時は長年の苦労が実って嬉しかったです。

 

Q. 禎子さんとの1番の思い出は何ですか?
A. 「お山は大騒ぎ」という劇の練習ですかね。私の父が能をやっていたので家に舞台があり、そこで練習をしていました。女の子だけでやっていた劇だったので、男の子の役は活発だった禎ちゃんと私の2人でやりました。