平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)の講和
2月21日、袋町のひと・まちプラザにて、「平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)」の方々約20人に、講和を行いました。
今回は「原爆の子の像 語り部の会」の石津敦子さんにお話をしていただきました。
HIPの方々は、世界中から来られる外国人の方々に向けてガイドを行っていらっしゃいますが、「原爆の子の像」について一番説明を聞かれるのでお話を聞きたいというご要望をいただき、コロナ禍に行った1回目から数年ぶりに、2回目の講和を行いました。
当日参加できなかった方もいらっしゃるとの事でしたので、英語版の「原爆の子の像と6年竹組の仲間たち」の本と、マンガ、折り鶴ノートを各1冊ずつ、お渡ししました。
私も同行しておりましたので、参加者の方からの質問には私の方から回答させていただきました。
【参加者からの質問】
Q. 東広島市の元禎子さんの担任だったという先生から、リレーで勝ったときの写真を見せてもらった禎子さんの顔に、アザが写っているように見えたが、そのようなものは無かったのでしょうか?
A. 無かったように思います。
Q. 白血病だけではなく、甲状腺がんだったとも聞いたのですが、どうでしょうか?
A. 当時小学生だったので病名など深い知識はなく、「原爆病」は怖い病気というイメージしかありませんでした。
Q. 原爆の子の像のガイドをする時に、像に赤い「v」について聞かれることがあるのですが何の意味があるのでしょうか?
A. 本当のところはわかりませんが、私は折り鶴をイメージしたものと思っています。
Q. 原爆の子の像がドームのような形になった由来があれば教えてください。
A. 設計や設営場所などについては、先輩である「平和を築く児童・生徒の会」が担当しており、全く私たちは関与していなかったので、わかりません。
Q. 募金活動で苦労されたことは何ですか?
A. 禎ちゃんのために募金活動をするという強い思いがあったので、募金活動そのものに苦労したことはなかったです。ただ、中学生ということもあり、クラブ活動など熱中していることとの両立に苦労している人も多かったです。
Q. 原爆の子の像の除幕式の時の思いを教えてください。
A. 禎子さんの死から4年間、血気多感な中学時代を原爆の子の像に捧げてきたので、「やっと禎ちゃんとの約束を果たせた」という達成感と同時に、「やっと終わった」という安堵の想いもありました。団結と継続があったからこそ、今でも6年竹組の仲間との関係性があるので、継続し続けて本当によかったと思います。
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会の最後に、HIPの代表である小倉恵子さんからお話をいただきました。
小倉さんから「子どもたちの力は、世界を動かす力にもなり得る。
また、私は自分が生きていることが平和活動の一つであり、自分が死んだら何も残らないが、川野さんは次世代に残す活動をされている」とおっしゃっていただき、そういう見方をしてくださったということがとても嬉しかったです。
小倉さんとお会いしお話が聞けて、とても充実した時間でした。
お話いただいた石津さんから感想をいただきましたので、ご紹介いたします。
【石津さんからの感想】
今回は、「平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)」のメンバーの方々の集まりとお聞きして、私にとってはハードルが高く感じられましたが、お集まりの皆様の優しい眼差しと、代表である小倉桂子さんからの温かいお言葉をいただき、肩の力が抜けてお話をすることができました。
『原爆の子の像』は、平和公園の中でも注目される像なので、皆さんの関心も高かったものと思います。
私は、「事実を語り継いでいく」ということの大切さを改めて強く感じました。次の「語り」へと繋げていけるとても良い経験となりました。




