語りの部屋

2025.12.07

真言宗の平和学習

11月27日、真言宗の平和学習が国際会議場で行われました。

この企画は、高野山真言宗の対人支援養成講座を修了した方を中心に組織された「心の相談員ネットワーク」という団体が主催されており、30代~70代の幅広い年齢の会員の方々約20名が参加されました。

 

今回私はお伺いできなかったので、代わりに「原爆の子の像 語り部の会」の原紺充さんにお話をしていただきました。

 

ほとんどの方が県外から来られていたので、原爆被災地図に爆心地や堀川町・牛田町・幟町小学校・国泰寺中学校・広島商学校などの位置を示し、傍らには1958年5月5日の「原爆の子の像建立時の写真」を飾ってお話をしてくださったそうです。

 

また、今お話しているこの場所は現在のように公園ではなくたくさんの方々が住んでいた町であったことや、今からお話しするのは原爆投下直後ではなく、原爆投下から10年経った当時の子どもたちがどんな様子であったのか、また親友が亡くなってしまう心の痛み、自分も被爆者である怖さなどについてのお話であるということをまずお話した後、『原爆の子の像と六年竹組』のお話をしていただきました。

 

 

お話の最後に折り鶴ノートのご紹介もしていただきました。

 

当日参加者の方から感想をいただきましたので、その一部をご紹介いたします。

【参加者の方からの感想】

『東京、浅草に住んでいますが、東京大空襲など学校でも学んできました。また高校生の時、平和を考える旅で広島にも来ました。しかし、原爆投下当時は幼く、10年経った頃に原爆症で苦しむ人がいたことや、その頃の子どもたちがどんな思いで生活を送っていたのかについては、初めてお聞きしました。親友が亡くなるというのは、どれほど辛い思いだったのか、改めてこれから色々調べていきたいと思います。また団結、継続の行動力がすごいなと思いました。自分が当事者だったらどういう思いだっただろうか?など考えました。』

 

『被災地能登から来ましたが、自分たちも正に川野さんたちの「団結・継続」これなのです。』

 

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また、私への質問をいただいておりますので、こちらでお答えしたいと思います。

【質問】

Q. 河本さんのご提案がなく、この像を造ることがなかったら、どうされていましたか?

A. 禎ちゃんが亡くなってみんなが集まった時に、禎ちゃんの命日に毎回集まって、お墓参りに行こうという話が出ていました。ただ、禎ちゃんのお墓は三次という遠いところにあるので、私達でも行ける距離に小さなお墓のようなものを造ろうと話していたので、そのようなものは造っていたかもしれません。

 

Q. アメリカへの怒りはありませんでしたか?また、どうやって気持ちを処理していきましたか?

A. 原爆当時は3歳だったので、アメリカとの戦争ということはわかっていませんでした。また、大きくなって禎ちゃんが亡くなるという出来事に対して「アメリカが殺した」などという、アメリカに対する批判は考えませんでした。

それは、当時子どもで純粋だったので、「原爆が憎い」ということはあっても深くは考えておらず、「アメリカ」は見えていなかったのだと思います。

また、担任の先生もそういうことはおっしゃらなかったので、私たちも人を憎むのではなく、原爆のことを憎んだのだと思います。

 

Q. クラスの1/3は被爆者でしたが、佐々木禎子さん以外はその後原爆症で亡くなったり、苦しんだ方はいらっしゃいませんか?

A. クラスメイトでは原爆症で亡くなったり苦しんだ人は、禎子さん以外はいませんでした。ただ、家族が亡くなったという人は、私を含めいました。

 

Q. 禎ちゃんの事をお話ししなくなった時はどういう思いでしたか?

A. 禎ちゃんのことは、その後映画化されたり小説に書かれるなど、随分メディアで取り上げられましたが、私たちにとってはあまりにもむごく辛く悲しい出来事として心に重くのしかかったため、そのようなメディアも見ないようにしていました。

また、団結の会はその後も年に1度集まっていましたが、そのことを話してしまうと心が沈んでしまうため、敢えてその話はしませんでした。

 

 

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お話いただいた原紺さんから当日の感想いただきましたので、ご紹介いたします。

【原紺さんからの感想】

お話をお聞きくださる前に広島平和祈念公園、碑巡りをされていたので、印象に残った場所をお聞きしました。

「供養塔にも行かれましたか?」とお聞きしたところ「私たちは真言宗の者なので、そこでお経を唱えて参りました」と言われ、心から感謝申し上げました。

「7万人もの家族のもとへ帰れない人たちのご遺骨」への供養は、心が救われるような思いがいたしました。

また、千羽鶴を折って原爆の子の像に奉納して来たことも教えてくださり写真を見せていただきました。2000羽以上をつながれた作業に本当に頭が下がる思いと共に、皆さんのあたたかいお気持ちに感動いたしました。