青崎小学校の平和学習
6月18日、青崎小学校の平和学習が行われ、5・6年生の生徒さん106名がお話を聞かれました。
今回は「原爆の子の像 語り部の会」の石津敦子さんにお話をしていただきました。
最後に折り鶴ノートの紹介をしていただき、ノートを生徒さんの人数分お渡ししました。
生徒さんからの質問がありましたので、こちらでご紹介させていただきます。
<質問>
Q. 禎子さんは、どのような人でしたか?
A. 一言でいうと「優しい人」でした。
ご両親が散髪屋をされていたので、両親の手助けになるよう、一緒に遊ぶ時はいつも歳の離れた弟と妹を連れて遊んでいました。
また、クラスにどんちゃんという小児麻痺で足の不自由な男の子がいたのですが、その子に対していつも気配りをして味方になっていました。
誰にでも優しく、人とのトラブルはない人でした。
その反面、運動場に出るとスポーツ万能で、かけっこでは男子の誰よりも早かったです。悔しがる男子は、すばしっこい禎ちゃんを「サル!サル!」と呼んでいました。
教室と運動場での印象が両極端で、とても魅力的な人でした。
Q. 禎子さんは、どういう思いで鶴を折ったのですか?
A. 名古屋の高校生が日赤病院へ原爆症で入院している人たちに千羽鶴を送りました。
その鶴を渡してくれた看護婦さんから「鶴を千羽折れば自分の病や苦しみを、鶴が空に運んでくれる」と聞き、それを信じて折っていました。
Q. 禎子さんが死んでしまっても、川野さんが前を向いて生きていけた理由を教えてください。
A. 禎ちゃんが亡くなった直後は、悲しみに暮れるだけではなく、「禎ちゃんのために何かしなくては」という強い思いがありました。その思いが支えとなり、原爆の子の像建立に向けて一心不乱に力を注ぎました。
そして、建立された原爆の子の像を見た時、「これで禎ちゃんとの約束を果たすことができた」と感じ、禎ちゃんへの思いに一つの区切りをつけることができました。
その後は、学生生活や仕事、子育てに励み、目の前の生活を一生懸命に歩んできました。
さらに、人生が少し落ち着いた頃、禎ちゃんのことを話してほしいという依頼をいただきました。広島に生まれ、原爆を経験しながらも今こうして生かされていることに感謝し、自分の体験を語り継ぐことが、禎ちゃんをはじめ原爆で亡くなられた多くの方々への供養であり、自分に与えられた使命なのではないかと考えるようになり、語り部を始めました。
禎ちゃんを失った悲しみがなくなったわけではありません。しかし、「禎ちゃんの思いを未来へつなぐこと」を自分の役割として受け止め、その使命があったからこそ、前を向いて歩み続けることができたのだと思います。
Q. 今、禎子さんに伝えたい言葉があるとしたらどんな言葉ですか?
A. 今伝えるとしたら、「あの頃は楽しかったね」という言葉だと思います。
辛かった時の話ではなく、リレーの練習など禎ちゃんと一緒に楽しく過ごした思い出話に花を咲かせたいですね。
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お話いただいた石津さんから感想をいただきましたので、ご紹介いたします。
【石津さんからの感想】
青崎小学校でお話させていただくのは3回目でした。
5・6年生の生徒さん、みなさんがしっかりと聞いてくださっていることが、私に伝わってきました。
川野さんから、直接質問に答えていただいたことも嬉しかったと思います。
担任の先生は、以前「川野さんの語り」を聞いたことがあるそうで、「これからも平和学習を続けていく」と話してくださいました。
繋がっていくことを嬉しく思いました。




