語りの部屋

2025.7.04

青崎小学校の感想文

6月19日にお伺いした青崎小学校から感想文が届きました。

その一部をご紹介いたします。

 

<感想文> ※一部抜粋

『この話で感じたことは、6年竹組のみんなが佐々木禎子さんを大事に思っていて強い団結力があったから像を建てる事ができたのかなと思いました。これから語ってくださった話を身近な家族などに伝えて広めていきたいと思います。』

 

『私は初めて知ったこともあって、とてもすごいと思いました。お話も分かりやすかったです。折り鶴ノートも大切に使わせていただきます。今日お話されたことを私も伝えることができるように頑張りたいです。また、折り鶴ノートに書いてあったように「核兵器がなくなり、世界が平和になりますように」という思いも忘れないでいたいです。』

 

『これからもっと平和のことについて調べ、次の世代また次の世代に伝えていき、全世代に伝えていきたいです。家族にも話そうと思います。』

 

『話し方がお上手で「ドーン」などの時は声が大きく、その時にどんなことがあったのか想像ができました。』

 

『まだ戦争をしている国は少なくありません。私はその国が平和になるように折り鶴を折り続けたいです。』

 

 

また、生徒さんからいくつか質問をいただきましたので、こちらでお答えしたいと思います。

<質問>

Q1. なぜ(禎子さんが)赤血球と白血球の数がわかったのですか?

A1. 禎子さんが自分の赤血球と白血球が10万を超えていないか心配で、ナースステーションで書き写していたそうです。

 

Q2. 禎子さんがなった白血病とはどのような病気ですか?

A2. 血液のがんで、白血球が異常に増え、正常な血液細胞ができるのを妨げる病気です。その病気は、被爆した人が良く発生する病気でした。

 

Q3. 禎子さんの折り鶴は、禎子さんが亡くなった後どうなったのですか?

A3. 禎子さんが亡くなった時、お父さんから6年竹組のみんなに4~5羽ずつ形見としてお渡しいただきました。

一部の人が持っていたものは原爆資料館に寄贈して、今でも飾ってあります。

 

Q4. なぜ原子爆弾は「ピカドン」と呼ばれていたのですか?

A4. 「原爆」という言葉を使いたくなかったので、ピカっと光った閃光と、ドーンという大音響を合わせて、広島の人はそう呼んでいました。

 

Q5. 禎子さんは鶴を何羽折ったのですか?

A5. 1000羽以上折ったことは確かなのですが、正確には何羽かわかりません。

それは、1000羽になると病気が治ると思いながら根詰めて折っている禎ちゃんの姿をみてかわいそうに思ったお母さんが1000羽にならないよう捨てていたと先生から聞きました。鶴を捨てるお母さんの気持ちを考えると、どんなに辛かったかと心が痛みます。

 

Q6. 禎子さんが折った折り鶴で、一番小さいものはどれくらいの大きさなのですか?

A6. 2cm角よりも小さい紙だったように思います。爪楊枝や針の先で折っていました。

 

Q7. 原爆の子の像の左右にいる人はどのような人ですか?

A7. 左右にいる2つの像は男の子と女の子の像なのですが、禎ちゃんを支えている6年竹組の団結の会の私たちだと、私たちは思っています。

 

Q8. 白血病がわかったのは、禎子さんが何年生の時ですか?

A8. 白血病がわかったのは、6年生の2月です。亡くなったのは中学1年生の10月25日です。

 

Q9. なぜ病院のロビーで後ろを向かずに走っていったのですか?

A9. 先生から面会時間は決まっているので長くいてはいけないと言われていたのですが、禎ちゃんがもっといて欲しいと思っているのもわかっていたので、禎ちゃんとの別れが辛く、悲しそうな禎ちゃんの顔を見ないように走って帰っていました。

 

Q10. お見舞い以外に禎子さんにしたことは何ですか?

A10. もう禎子さんが退院できないことはわかっていたので、頭の片隅ではいつも禎ちゃんのことが気になっていました。毎朝仏壇に「奇跡が起きて禎ちゃんが元気になりますように。」と祈っていました。

 

Q11. やけどやガラスが体にささる以外で、何個くらいの被害がありましたか?

A11. 爆心地から半径2キロ以内の木造家屋はほぼ全壊・全焼し、市街地の約9割が壊滅的な被害を受けました。約7万9千人が負傷し、1945年末までに広島市では約14万人が死亡したそうです。