語りの部屋

2024.8.20

神奈川県大和市男女共同参画の平和学習

8月6日、ANAクラウンプラザホテル広島で、神奈川県大和市から来られた小中高生に原爆の子の像と6年竹組の仲間たちのお話をしました。

 

大和市では平和都市推進事業に取り組んでいらっしゃり、その事業の一環として「平和」の尊さについて考えてもらうことを目的として、毎年小中高生に一般公募し、来広されています。

 

今年は、私に代わって「原爆の子の像 語り部の会」の平尾やよいさんにお話をしていただきました。

 

平尾さんの講演が終わってから、感想や質問の時間には数々の発言がありました。

その一部をご紹介致します。

 

<感想>

『禎子さんの像は知っていたけれど、建立された経緯を知らなかったので、子供たちが中心になりできる事ではないと思いました。』

 

『5000万円ものお金が全国から集まったのには驚きました。』

 

『禎子さんや折り鶴の事を考えたのは高校生の頃(当時NY在)9.11のワールドトレードセンターの博物館で禎子さんの折り鶴を見たのが最初でした。しかし広島での原爆での禎子さんの折り鶴は平和の象徴として、世界中に広まっていることが印象的で感動しました。禎子さんの鶴自体が平和の象徴になっていったのは同級生やお兄さんの力なのかなあと感じています。子供にできることは限られていると思われたり言われているが、子供たちが活動して広く知られているのがすごいことだと改めて実感しました。』

 

『英語の3年生の教科書に禎子さんの話が載っていて、暗唱をして文化祭で発表したのを見たことがありますがごく一部です。この(建立されるまでの)経緯を全て知ることができて良かったと思います。是非とも全国で広めて欲しいです。中学校の授業で習うので、この話を聞くとさらに深まるのではないかと思います。』

 

<質問>

Q. 川野さんの講演は全国でいろんな方がされているのでしょうか?

A. 全国というほど広がってはいませんが、広島を中心としています。現在伝承者を養成中で、この人たちも依頼があれば出向くか、こちらに来て頂くという状況です。これまでは川野さんお一人がされていて、県外に出向かれたことは何回かあると聞いています。

 

Q. 禎子さんの像を昨日見たときに横にも像があるんですけど、これには意味があるんですか?

A. 川野さんは横の女の子の像は自分だと思うことにしている、と言われています。当時の子供たちは皆そういう思いなのではないですかね。

 

Q. 恩師の野村先生をきっかけにリレーで皆で力を合わせて成し遂げたことが、6年竹組の原点なのでしょうか?何がここまで突き動かしたのか?どうしたらこんなに人は誰かのためにここまでできるのか?と素朴に感じました。この話を皆に伝えているという中で、平尾さんとしての感想なり考えを教えてください。

A. 実は今日が(講話をするのは)初めてなんです。さっき伝承者を今養成中というお話があったかと思いますが、養成期間が終了して認定していただき、初めて今日、川野さんの代わりでさせていただいたんです。ほんとにまだまだ禎子さんのことを十分に理解できていない部分が沢山あると思います。川野さんのお話うを聞いたり、川野さんが書かれた本を読む中で、やはり野村先生の存在もすごく大きかったなあと思いますが、皆が本当に仲が良かったというのが一番ではなかったかと思います。また、禎子さんの人となりも、すごく優しくて面倒見もよかったりしたので、禎子さん自身も皆から愛される子供さんだったんだろうなと思います。先ずは仲が良いクラスというところから団結という言葉も自然にでてきたのではないかと私は理解しています。

 

<「語り部継承の会」同席者回答補足>

私は野村先生もよく知っているんですよ。私は教員していたのですが、教員時代に同じ学校で、野村先生はいつも子供たちにリレーやマラソンを教え、運動場を走っていました。そういうことで学級作り、集団作りをされていたのではないかと思います。子供たちが一つの目標に向かって頑張ることをその中で教えておられたんでしょう。それは子供たちにとっては目標がしっかりしているので動きやすいし、団結しやすかったのだと思います。

当時、野村先生のお宅と子供たちの学区は遠く、今でも電車に乗って相当かかるくらいの距離ですが、毎日毎日子供たちは一緒に野村先生のお宅まで遊びに行っているんですよね。野村先生の学級経営の独特な「団結」という意識を育てるのがお上手だったんじゃないかなと思いますね。

 

 

最後に参加者の子供達、そして引率の実行委員会の方々へ折り鶴ノートを合計10冊お渡しさせていただきました。

 

この後は平和資料館へ行き、夜は灯篭流しに参加されたそうです。

猛暑の中、2泊3日という日程の中で講演を聞き、事前学習や事後学習などを終えられて、翌日には広島を後にされたそうです。

神奈川でも平和への思いが広がることを願っています。