観音小学校の感想文
7月4日に訪問した観音小学校から感想文が届きました。
その際、先生からのお手紙も同封してあり、近日に開催された「おりづる集会」の様子について書かれておりました。
<5年生担任の先生からのお手紙> ※一部抜粋
今週の月曜日に「おりづる集会」がありました。ひとりひとりが平和への思いを込めて折り鶴を折りました。
「禎ちゃんはどんな思いで折っていたんかね」「禎ちゃん中学校に行きたかっただろうね」などとつぶやきながら鶴を折っていました。
例年より思いがこもった折り鶴が出来上がったように思います。
子どもたちが講話の当日だけでなく、その後も思い出してくれていることを嬉しく思いました。
それでは、感想文の一部をご紹介致します。
<感想文> ※一部抜粋
『クラスメイトの一致団結がすごいなと思いました。みんなで頑張って負けずに努力していたら、きっといつか報われるんですね。私も大切なものを諦めずに努力していこうと思いました。』
『当時の人達が頑張って今の広島をつくってくれたことに心から感謝しています。そして私たちは平和の中で当たり前のように過ごしていて、今もどこかで戦争が続いているのを忘れちゃいけないと思いました。未来では全ての人が平和を体験できたらいいなと思います。』
『川野さんの親友を失ってしまった悲しみ、お見舞いにもっと行ったらよかったという後悔、原爆のトラウマ、計り知れないほどの苦しみを、私たちは知りません。でも、西さんが話してくれた川野さんたちのお話は、私たちの頭に強く残っています。なので、これからもこのお話を広島や世界のみんなから忘れられぬよう、語りついでいきたいと強く思いました。』
『折り鶴ノートブックを読んで、原爆から70年以上たった今でも放射能による後遺症や精神的な苦しみが残っている人もいるのを知って、このようなことを二度と繰り返さないように伝えていくのが大切だと思いました。』
『ぼくが一番心動かされたことは「例えどんなに苦しい時でも、最後まであきらめずに頑張っていた」ということです。お話を聞いたことがすごくいい経験になったなぁと思いました。』
また、いくつか質問をいただいていたので、この場で回答させていただきます。
Q. 仲良しの禎子さんが亡くなってしまった時、一番最初に思ったことはなんですか?
A. 禎ちゃんがかわいそうという気持ちはもちろんでしたが、卒業の時「中学校へ行っても絶対お見舞いを続ける」という約束をしたのに、8月を最後にお見舞いへ行っていなかったことへの後悔の念と罪悪感で辛かったです。
Q. まだ禎子さんを思い出したりしますか?
A. 今回のように平和学習で講話をするたびに、当時の自分に戻って禎ちゃんのことをありありと思い出します。また、平和公園で原爆の子の像を見る度に、当時の6年竹組の仲間のことを思い出します。今でも団結の会のメンバーとは同窓会をして、皆で禎ちゃんの思い出話をしています。
Q. 今の日常ではどんなことをしているのですか?
A. 禎ちゃんの分まで元気をもらって、今でもお仕事をしています。また、時々今回のように禎ちゃんのお話を小学校や中学校の平和学習で講話をしています。
Q. 原爆が落ちた時、どうやって生き残れたのですか?
A. 私は部屋の中で被爆したので、やけどもしませんでした。日向にいた人は亡くなり、日陰にいた人はやけどを負うなど、同じ地域でもいた場所によって被爆状況が違いました。
Q. 家も全てなくなったのに、どうやって町や店を作ったのですか?
A. 当時私は3歳だったので、詳しいことは覚えていませんが、皆で食べ物を分けあったりしながら助け合っていました。神戸や東北、能登などで起きた大震災の復興をテレビでみてきましたが、きっと皆で力を合わせて助け合うことで、復興出来たのだと思います。