「禎ちゃんについて真実を素直に伝えたい」
小学校時代の同級生で、像の建立にも携わったが私が、直面したことを綴っています。
禎ちゃんのことをもっと身近に感じて欲しいと思い、このサイトを作りました。
命の大切さ、戦争の悲惨さ、平和の尊さを
一人でも多くの方に知ってもらえたら嬉しいです。

川野登美子(語り部)

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語りでつづる 原爆の子の像

原爆の子の像について

広島市の平和記念公園にある長円形のドームを基盤とする「原爆の子の像」をご存知ですか?
このモデルとなった佐々木禎子さん。満2歳の時、爆心地から1.6キロの距離で被爆しましたが、その後は元気な少女として育ち、幟町小学校(広島市中区)へ入学。そんな禎ちゃんと私は2年生から同じクラスで大の仲良しでした。

6年生の春の運動会で禎ちゃんと私は、学級対抗リレーの選手に選ばれましたが、残念ながら竹組は最下位に。しかし、担任の野村先生に「団結力」の大切さを学び、毎日リレーの練習を続けた結果、秋の運動会で6年竹組は優勝しました。

そんな中、6年生だった1955年1月、禎ちゃんは突然学校を休んだ後、入院しました。卒業を間近に控え、クラスでは卒業後も禎ちゃんを見舞おうと「団結の会」を結成。中学に入ってもお見舞いを続けていました。禎ちゃんは千羽鶴を折ったら治ると信じ、ベッドの上で折り続けましたが、1955年10月25日、白血病により12歳の若さで亡くなりました。「かわいそう」という気持ちと、同じ被爆者として「もし私だったら」という恐怖心が起きました。

禎ちゃんが亡くなった後、私たち「団結の会」は「禎ちゃんのために何かしたい」と考え、翌11月に広島市で開かれた全国校長会で、像を建てるための寄付を呼びかけるビラ2,000枚を配りました。これがきっかけで、市内の小中高の児童会と生徒会が集まって「広島平和をきずく児童生徒の会」が発足。全国から当時のお金で約540万円の寄付金が寄せられ、1958年5月5日に原爆の子の像が建立されました。私たち六年竹組のみんなは、中学時代のほとんどを像の建立に費やしました。

原爆の子の像 原爆の子の像 原爆の子の像 原爆の子の像

原爆の子の像

禎ちゃんと私は同じように被爆をし、禎ちゃんは生き続けられなかった。けれども私はこうして生かされています。私は、被爆50年を迎えた1995年に初めて自身の家族の被爆体験、禎ちゃんと像の建立についてお話させていただきました。今は語り部として修学旅行生や市内の子供達に当時の話をしています。与えられた命に新たな使命感を持って、一つひとつ心を込めて伝え続けていきたいと思います。

著書「原爆の子の像 六年竹組の仲間たち」について

70歳を過ぎた頃、「これから年齢を重ねて、話せなくなる時が来るのではないか」と考え、本の出版を決めました。思い出や建立までのいきさつを綴っています。佐々木さんとの写真や同級生が書いた佐々木さんの追悼文集「こけし」に掲載された作文や詩も紹介しています。

2013年5月5日に自費出版。B5版、約100ページ。1,000部。

川野登美子

川野登美子
1942(昭和17)年 広島市中区堀川町に生まれる
1945(昭和20)年 三歳の時に疎開先の牛田町の自宅で被爆する
1950(昭和25)年 幟町小学校 二年、佐々木禎子さんと同じクラスになる
1954(昭和29)年 幟町小学校 六年竹組になる
1963(昭和38)年 安田短期大学卒業
1995(平成7)年 語り部として平和学習に訪れる子供達に、原爆の子の像と建立に関わった「六年竹組の仲間たち」の話を語り始める
2013(平成25)年 自費出版による著書「原爆の子の像 六年竹組の仲間たち」が日本自費出版文化賞入選作品に選ばれる
2016(平成28)年 DVD「語りでつづる 原爆の子の像 ~六年竹組の仲間たち~」が文部科学省による教育映像等選定作品に選ばれる

現在も語り部として活躍中

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